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飛騨高山朝市総合案内・飛騨高山宮川朝市協同組合公式サイト
飛騨高山朝市
飛騨高山の朝市と。飛騨高山の見所、観光名所を季節の話題ともにご案内します

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飛騨高山朝市の歴史について御紹介します。江戸時代から続く朝市の波乱含みの歴史は?そして、平成朝市への移り変わりまで。日本の文化の変遷が感じられます。
朝市の歴史
 
 飛騨高山には2箇所の朝市があります。飛騨高山宮川朝市と、陣屋前朝市です。ともに、今は高山の風物詩として観光には欠かせないものとなっていますが、市民の台所として、又あるときは農産物の取引の場として、今も昔も、欠かせない存在です。

 そんな、朝市ではありますが、その歴史に関する文献は、きわめて少なく、その一部を、ここに集めてみることにします。


飛騨高山朝市のおいたち・・・

(目  次)


  
  

    飛騨高山 宮川朝市

    創業−江戸前期(別院付近)
    組合結成−昭和22年(安川朝市組合)

    昭和35年現在地に移転−昭和36年協同組合となる
    開催地岐阜県高山市下三之町

    開催時間−午前6時より12時まで
    年中無休−  組合員90名


    陣屋前朝市

    大正11年昼市夜市として開設
        組合結成−昭和46年
    開催地−岐阜県高山市八軒町
    開催時間−午前6時より12時まで
    組合員90名





朝市の歴史

江戸時代

 高山の朝市について最も古い記録の一つに、尾張藩の儒学者、森春濤(もりしゅんとう 生年 文政二年四月二日(一八一九) 没年 明治二十二年十一月二十一日(一八八九) 墓所 東京都府中市)のお笑い草(1862)の、美濃、高山旅行等々、家族に知らせた書状・・・

 「此のころは東縣所前に毎朝花市と申事始まり申候、此は年々の事にて、此間桑の市はじまり候せつより7月頃までのことのよし、頗る賑合申し候。両三日は毎朝明けより六つ頃起き、両毎朝三日は両三人誘ひに参りくれ候故、目覚ましに花市場見物に出掛け、夏菊、石竹、社若、卯の花、百合、銭葵、紅つつじ其外さまざまの花を買い取り、大瓶へ雑に押し込み相楽み罷在候」とあり、1892年(文久)以前から既に朝市は存在したことになる(東縣所とは高山別院連寺照蓮のこと)。


 なお別院での桑市は1819年、1820年の記録もあり、桑市には仲買人の出入りを禁じた、とある。
 また三年後の文正10年には鍛冶橋両詰めに夕涼みの夜市が立ち、物売り店が十数件出て、甚だ繁盛したとある。

そのほか天保4年、桑市の新設願い、文久3年、慶応3年にも、同じような文章がみえる。江戸時代においては、一般的に見て振り売りが主に行われており、朝市・夕市・花市の名も一部で聞かれるがほとんどが桑市のついでに持って行って並べた花・野菜などや、その客を目当ての出店程度のものではないなと思われる。又季節も1年のうち6月から8月頃の開設であったように思われる。


明治時代

 本格的に、朝市・夜市が盛んになるのは明治も30年代に入り、この地方の人口が急速に増え始める頃からになる。

明治2年弥生橋詰めに夕暮れより五ッ時まで、下向町の農家の組頭より届出、明治5年中橋詰めにて、「明治8年から桑市を桑市場と変える」といった書状もある。

明治26年になると一之町の総代者より、夜市の開設の届出があり、期日は7月5日より9月10日まで、場所は一之町四丁目から安川まで、販売品は各種商売品と町役場に届出がある。この頃話は、 年配者に聞くことも出来た。

 翌27年6月から8月まで、別院前の桑市には自作の野菜も売られている。朝5時〜10時までと夜6時〜10時まで、東側50間と西側50間、別院の境内から文右衛門坂のあたりまでとかなり盛んだった模様である。

明治31年飛騨地方特有の出買い制度が設けられ、高山の仲買業者が近郊農村結ぶ主要道路の辻に7〜8箇所に小屋を設け農家より送り出される野菜を買い占めた。
この制度により朝市はさびれ、振り売りが盛んにる。


大正年間

 大正11年大野農会(農業会)の主催で郡役所(陣屋)前広場で昼市夜市が開設した。高山町も繁栄策と奨励し、当初は出店者に先着順にバケツ1個づつ与えたという。

夜市は当時家庭用の電気は10燭が普通だったが、3個の100燭電球を灯し、夜市の方が人でも多く広場いっぱいに農家は野菜をならべ、屋台店も出て市は盛大だった。


昭和時代(戦前)

 昭和7年には朝市は光彩を失い夜市と変わっていった。理 由はその日に取り売る野菜の鮮度にあったようだ。翌年には出買い制度が衰退して朝市も息を吹き返してきた。

昭和期の朝市は主に別院の付近において、続いていたが、各所でイベント的な市も行われていた、当時の朝市出店者の話によると、別院前の安川朝市に陣屋前の夜市と言って都合のよい時間にどちらでも利用できたようだ。


  • 昭和9年高山線開通
  • 昭和10年本町で夜市を開催
  • 昭和11年市制施行
  • 昭和12年11月防空訓練のため中止していた朝市を再開
  • 昭和13年3月夜市の再開
  • 昭和13年野菜に正札を付けることを決める。



又、野菜市にスピーカを付けて正札に徹底公定価格を放送するなどして価格の周知をはかっる又野菜の出盛りには、リヤカーや荷車の放置で付近の道路の、道路障害になり車置き場の設置するなど、対策を大野農会が行っていた。


第2次世界大戦が始まる


  • 昭和14年9月1日第2次世界大戦が始まり、やがて食料不足、統制により朝市も停滞期に入る。

  • 昭和16年市農会が陣屋前で午後5時から8時まで市を開くと通達を出す
  • 昭和18年陣屋前、国技館横、別院前の3箇所で20万貫目の野菜を販売

  • 昭和19年同3市場で買占め、闇取引を取り締まる
  • 昭和20年全生産品の販売を禁止、一括配給となる



 明治中期より戦時にかけて形態こそ変わっているが、朝市・余市の繁盛ぶりが伺える。市の場所はさまざまな場所が記されているが、やはり陣屋・別院と、戦中戦後の国技館横の三箇所での市が主だったようだ。

 ほかに、大町、本町、国分寺、国分寺裏、魚横丁、中橋、連合橋などにもあった。

 朝市、夜市の開設にあたっては、現在と同じような問題(価格問題、掃除係、交通障害など)を抱ええいたことも伺えるが、この点については全国どこの朝市においても同じであるようだ。


昭和時代(戦後)

 戦後の日本各地で見られた通り、物資や食糧の不足のため各地に闇市なるものが発生したが、高山市においても陣屋前、別院前、鍛橋詰めなどにもできた。

 それに統合して組合組織とし陣屋前において簡易店舗作りの市ができた。

 端板葺きの九尺二間程度の長屋で20数件が、コの字型に並び、販売品は魚類、野菜、味噌、果物、雑貨、米、菓子、嗜好品、海産物、金物、古道具から電球まで多種多様であった。

 もちろん、中央の広場には近在の農家も加わり、大変な賑わいであった。市は終日行われていたが、品物の不足していた時代であり、午前中に売り切れ、午後は買出しに走り回る状態であった。


陣屋前朝市の立ち退き

  昭和24年陣屋前からの立ち退きを命じられ、その後しばらくの間陣屋前から朝市は消えることになる。立ち退きを余儀なくされた朝市は移転することになったが、名田町6丁目に移転することになったが、場所も狭く3ヶ月足らずでまた移転することになった。再三の移転を余儀なくされた朝市が次に移った場所が安川通りであった。


昭和22年頃より再開した別院前の朝市はこの頃までは規模も小さいものであったが、農家の人たちも加わり年々大きくな場所も安川通りから鍛冶橋へと、500mを超える大きな市となり、相当な繁盛となった。

 当時の安川通りはまだ舗装はされておらずアーケードもなかったが、車道と人道は別れており人道の端に商店と向かい合って店を出していた。また、誰でも出店することはできた。

 農家の人は地べたにムシロを敷き品物を並べ、リヤカーは後ろの車道に並べまったくのんびりしたものであった。現在使っているサービス袋の絵は当時のことを思い出して描いたもので、桧笠にもんぺ履き、後ろにリヤカー、ムシロが売り台、よくできていると思う(・∀・)b安川朝市は10年余り続いた。



安川朝市の立ち退き

 昭和35年安川通りが国道に編入されることになり再び立ち退き命令が下された。 

代替え地の獲得は並大抵のものではなかった。候補地の交通量の調査、関係各省との交渉や書類作り、地元町内の同意のお願い廻り、同意者の署名集め、どれをとっても気の遠くなるような作業であった。

 なにしろ自動車の普及していない時代であったので、高山近郊の農家を始め国府町、丹生川村まで出掛けて行き、快く同意がもらえるときはよいが門前払いを食らうときもあった。

 ようやく得た新転地も当然のことながら未舗装で穴ぼこだらけ、後ろの柵もなく、草はぼうぼうという文字通りの河川堤防であったが、県土木より河川敷きの占用許可がおり、昭和35年5月1日『宮川市場』が始まったのである。


現在地に移転

 「宮川朝市協同組合と名を変える」> とにかく1年間だけの限定で、仮の場所と言う事での発足だった。何もない堤防にテントさえ張ることも出来ず、客もない状態が続く中、朝市を護り半永久的に続けるために、協同組合を発足させる事になる。

 今では多くの団体は法人化されているが、当時では活気的な試みであった。何しろ定款がガリ版刷りの頃である。

 この頃、一時廃止となっていた、陣屋前の朝市も復活して、昭和33年には100を超える店が出たと言う記録がある。

盛者必衰と言うが、まさにその道を通って来たのが朝市の歴史であった。盛んになると叩かれる。この時も、協同組合を発足と言っても組合員二十数名、協力会員五十数名で始まった。そのほかの安川朝市時代の出店者のほとんとは、別院前陣屋前又サーカス広場へと代わって言った。

 
 一方組合となると、いろいろ物入りとなる、売り場テントの接地施設や転落防止柵、見回り役、リヤカー置き場、簡易トイレ設置など、に加え当時(昭和37年)まだ道路舗装には半額程度負担金を支払わなくてならなかった。

 多くの作業は組合員の使役で行った、当時の記録に手間代、1時間70円、半日出ると三百円の記録がある.ちなみに組合費1月500円出店料1日5円とある、ともかく組合経営は金銭的、 体力的にも大変な時代でった。

 それでも2年3年とする内に宮川朝市は賑わいを取り戻して行った、昭和39年東京オリンピックを機会に、日本の景気上昇とともに高山の町も活気出て、当朝市もかなりの賑わいを見せるようになり、夏場には、300店舗を越す大市となった。それに、飛騨地方の八百屋の地元農産物取り引きも、活発に行われかなりのこんざつを見せていた。


朝市廃止

 移転から10年、朝市はしだいに大きく発展して行った。日本の国においても、オリンピックや万博などを行い繁栄の道を進んでいった。又このころから観光ブームに乗り飛騨地方にも観光客が増え始めた。

 昭和47年『朝市廃止』の話がが持ち上がった。

きっかけは町内の駐車違反の問題が始まりであったが、地域住民、役所がマスコミを使った廃止運動となって行った。うるさい。汚い、邪魔だと書き立てられ、某市会議員に於いては、戦後の闇市を置いて置くのは、高山の恥だと新聞紙上に掻き立てる。

 つましい商いをする朝市に商魂たくましいと書く新聞社それも同じ記事を繰り返し掲載するにいたっては、今のいじめ問題に等しいものだった。

 結局、朝市は2年間の猶予をもって、は廃業することになった。

 しかし、ココで異変が起きた。当組合は協同組合(法人)である。いかに官庁と言えど簡単に廃止する事が出来ない事に成っていた。特に県に於いては、開催場所の河川敷を条件付きであるが、従来通り使用許可が認められた為、朝市は今日に至るまで続く事になる。後日談に成るが、当時朝市廃止運動の裏には、そのころ開設した「公設市場」の仕入れ業者が朝市で取り引き出来ないようにして公設市場利用を増やす為に、当時の市長命令で行ったとの事であった。


バブル景気と崩壊


 歴史は10年ごとに繰り返されると、言う人があるが、まさに宮川朝市はそれである。

 昭和60年代またしても難問が起きる大型スーパーやホームセンターが郊外に出来、市内中心部に商店が無くなり住人が郊外に移り住むようになつて行った、という事は朝市利用する地元客が少なくなってしまった。

 当時高山は観光ブームに乗り観光客の入り込みが最高記録を更新していた。ココで朝市も観光客相手と変わっていった。


平成の朝市

 昭和63年頃の朝市は景気のも良く、新聞には朝市年商3億と書かれていたが、私の試算では宮川、陣屋前両朝市を合わせて年商10億を越す売り上げがあったと思う。

 その後バブルの崩壊、省資源運動買い控え、大型両量販店の進出、土産店の急増などと、朝市における売り上げは年々低下をたどり、最近に至っては、道の駅や農産物直売所など公費補助による朝市に、顧客ばかりか出店者、まで取られ、購買は最盛期の2割まで落ち込んでいる。

 特に組合員の高齢化後継者不足は深刻な問題である。

 2004年の、ある大手新聞社の発表によると、行ってみたい観光地の地方都市では飛騨高山が「1位」その内容は高山祭りと『朝市』と書かれていた。

 高山の朝市は今や日本一となったのである。

 又、今後の飛騨高山の伝統ある朝市を、このままの姿で護り続けて行くかを真剣に考える時に来ている。


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