朝市の歴史

朝市の歴史

江戸時代 ~ 夏に開かれた「桑市」が元祖

朝市の歴史は古く、江戸時代にさかのぼります。
昔の文献によると、1819年頃には高山別院前で「桑市」と呼ばれる養蚕の市が行われ、鍛冶橋両詰でも夜市が立ち、10数店が並んで繁盛していたと伝えられます。

江戸時代の市では量り売りが主流で、また朝市や夕市には桑市のついでに持ってきて並べた野菜や花が売られていたようです。市が開かれる季節も1年中ではなく、6~8月頃だったと推測されます。

明治時代 ~ 朝市と夜市が賑わうように

明治30年代に入ると、朝市や夜市が賑わいを見せ始めました。明治27年の6月から8月まで、高山別院前の桑市では自家栽培の野菜が売られるようになり、朝5時〜10時までと夜6時~10時まで、別院の境内から文右衛門坂のあたりまで市がのびて盛んに行われていたようです。

大正時代 ~ 高山市の奨励で昼市と夜市が隆盛

大正11年、大野農会(農業会)の主催により、郡役所(陣屋)前広場で、昼市と夜市が開設されました。高山市も奨励し、出店者には先着順にバケツ1個が与えられたそうです。

広場には3個の百燭電球を灯し、夜市も大賑わいに。当時の家庭用電気は十燭が普通だったといいますから、それはそれは明るかったことでしょう。その明るさの中、屋台は数多く出店。農家も広場いっぱいに自家野菜を並べ、店は大変繁盛しました。

昭和時代・第二次世界大戦前 ~ 高山線開通でさらに賑わう

昭和7年頃になると、朝市は翳りが見え始め、夜市へと変わっていきました。しかし翌年になると再び朝市が息を吹き返します。当時の朝市出店者の話では、高山別院前の安川朝市と陣屋前の夜市は出店者の都合のいい時間にどちらの場所も利用できたそうです。

やがて昭和9年、高山線が開通すると人の往来も増え、昭和10年には本町で夜市が行われるようになります。
世の中に戦争の気配が漂い始めると同時に朝市は防空訓練により一旦中止されますが、昭和12年頃に再開。昭和13年には夜市も再開されます。

昭和時代・第二次世界大戦中 ~大戦勃発で低迷期へ

昭和14年9月1日、第二次世界大戦が始まると食料不足や統制により、朝市も停滞期に。昭和16年には、午後5時から8時まで陣屋前で市を出すと大野農会が発表。昭和18年には陣屋前、国技館横、高山別院前の3ヶ所で野菜を販売しました。

しかし終戦の昭和20年には全生産品の販売が禁止され、一括配給となったのです。
明治から第二次世界大戦時期にかけて、朝市や夜市は陣屋前と高山別院、戦中戦後の国技館で主に開かれていたようです。

昭和時代・第二次世界大戦後 ~ 戦後の闇市が誕生

戦後は食糧や物資不足により、全国各地で闇市が行われました。高山も例外ではなく、陣屋前、高山別院前、鍛冶橋詰めに闇市ができました。

これらを組合組織とした簡易店舗作りの市が陣屋前に誕生。端板葺きで間口約2.7m、奥行き約3.6mの長屋が20数件並び、魚や野菜、米などの食料品をはじめ金物や古道具など多種多様なものが販売されました。中央の広場には近隣の農家も野菜を売るなど大変な賑わいだったようです。

安川通りの朝市が繁盛

昭和24年、当時の裁判所および検察庁の改築で、市は陣屋前から立ち退きを命じられて移転を繰り返し、安川通りに落ち着きました。
昭和22年から再開した別院前の朝市は徐々に規模が大きくなり、場所も安川通りから鍛冶橋へと500mを超える市となってかなり繁盛しました。

農家の人々は地べたにムシロを敷き、リヤカーは車道に並べて野菜や果物を販売。市はのんびりとした風情に包まれていました。現在使っているサービスの袋に描かれている絵は当時の市の様子を描いたもので、その時の賑わいが伝わってくるようです。

安川通りから宮川の河川敷へ

昭和35年に、再び立ち退きを命令された安川朝市は幾多の困難を乗り越え、ようやく現在の宮川朝市の場所に落ち着くことができました。とはいえ、当時は道も未舗装で穴だらけ。

今からは想像もつかないような河川堤防でしたが、県土木より許可が下り、その年の5月1日から『宮川市場』が始まったのです。昭和33年頃には陣屋前の朝市も復活します。

組合が奮闘し、人で賑わう宮川朝市に

宮川市場は1年間限定でスタート。何もない堤防にテントも張ることができないような状態でしたが、朝市を続けるために協同組合を発足させました。
組合員は20数名、協力会員は50数名。売り場テントの設置施設や転落防止柵、見回り役、リヤカー置き場、簡易トイレ設置などの資金調達に加え、多くの作業は組合員の使役で行ったといいます。当時の組合は金銭的にも体力的にも大変な時代を乗り越えてきました。

こうした苦労の甲斐あって、宮川朝市はだんだんと賑わいを取り戻します。昭和39年の東京オリンピックや、大阪万博をきっかけに、日本の景気も上昇。観光ブームの波に乗って高山の街も活気にあふれ、朝市も大いに賑わいました。

幾多の困難を乗り越えて存続

昭和47年頃になると、町内の駐車違反をきっかけに地域住民や役所が「朝市廃止」と叫ぶようになりました。「うるさい」「汚い」「邪魔」とマスコミに書き立てられ、某市会議員にいたっては「戦後の闇市を置いておくのは高山の恥」とまで新聞に書く始末。

結局、朝市は2年半の猶予を持って廃業という窮地に立たされたのです。しかし協同組合は法人。いかに官庁といえども、そう簡単に廃止させることはできません。県から条件付きで河川敷の使用許可が下りたため、朝市は続けられることとなりました。

バブル景気と崩壊による影響

やがて昭和60年代になると大型スーパーやホームセンターが郊外にオープンし、郊外へ移住する人も急増。地元の利用客が減った分、観光客が増え、朝市は観光客相手と変わっていきます。

昭和63年頃には世の中のバブル景気にのって朝市も盛況を見せましたが、バブルの崩壊とともに人々の買い控えが始まり、また大型量販店の進出や土産店の急増などが原因で朝市は年々売上が減少。昨今は道の駅や農産物直売所も誕生し、顧客はもちろん出店者も取られる結果に。朝市の総り上げは最盛期の2割まで落ち込んでいるといわれます。特に出店者の高齢化による後継者問題は深刻です。

日本一の朝市を次世代へ

2004年にある大手新聞社から発表されたデータによると、「行ってみたい観光地の地方都市」では飛騨高山が見事第一位となりました。その理由は高山祭りと朝市。高山の朝市は日本一に輝いたのです。朝市の魅力はなんといっても“ふれあい”にあります。

人と人との心通う温かなふれあいは、大型スーパーや通販にはないもの。激動の歴史をたどり、人々の手によって守られてきた朝市の伝統を、次世代へつないでいくことは大切な使命です。

朝市の様子 ~ 昭和初期から平成

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過去の飛騨高山宮川朝市ホームページ
2021年2月28日まで公開されていたホームページは、こちらからご覧いただけます。
昭和や平成の写真など、過去の飛騨高山宮川朝市の様子が掲載されています。

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